あけましておめでとうございます。昭和探偵事務所・所長のナガサワです。本年も打ち捨てられたカビ臭い昭和の残滓を、壊れかけたシシオドシのごとく緩慢に垂れ流してまいります。さて、今年のお正月、みなさま、いかがお過ごしでしたか?コロナ禍のお正月だけに、コタツで蜜柑を食べながら、箱根駅伝を楽しんだ方も多いのではないでしょうか。
近年、年末ともなれば、出場校の実力検証や順位予想がメディアで喧伝され、おのずと強豪校がクローズアップされる箱根駅伝。今回紹介する東海大学も、その中の一校であります。
みなさまは東海大学にどんなイメージをお持ちでしょうか?日本を代表するマンモス大学、付属校が多い、柔道の山下泰裕、巨人軍監督・原辰徳…読書家なら夢枕獏などを思い浮かべる方もいるかと思います。で、この東海大、北は北海道から南は熊本県まで、全国に8箇所のキャンパスを擁しておりまして、そのメインキャンパスは、神奈川県平塚市の「湘南校舎」とされています。丹沢の山並みを臨む広大な校地は、まさにメインキャンパスと呼ぶに相応しいスケールを誇り、数万人の学生が青春を謳歌しているのであります。で、ここからが本題。東海大は、神奈川県平塚市がメインキャンパスであるにもかかわらず、実は東京都渋谷区富ヶ谷2丁目28番4号に本部を置く、純然たる東京都内の大学なのです。驚きました?
渋谷区富ヶ谷の本部は「代々木校舎」と呼ばれております。この校舎は、昭和18年、静岡県清水市に誕生した東海大にとって、戦後の劣悪な社会的・経済的な混乱の中で、学園閉鎖の危機を乗り越え、東京進出(昭和30年:1955年)を果たした記念の地でもあるのです。湘南校舎と比ぶべくもない狭隘な校地に、建設以来の外観を保つ校舎は、日本分離派を代表する建築家として、日本武道館や京都タワーなど多くの作品を残した山田守の設計によるもの。曲面や曲線を用いた個性的かつ印象的なデザインは、日本モダニズム建築を代表する作品として、いまも大切に使われています。
まず、代々木校舎の見取り図をご覧ください(東海大学HPより)。どうです、狭いでしょ。この校地には、かつて私立名教学園中学校・高等学校がありました。東海大は同学園を吸収・合併することで、悲願の東京進出を果たしたそうです。
渋谷区富ヶ谷の閑静な住宅街に異彩を放つ昭和モダニズム建築の数々。私は東海大とは縁もゆかりもありませんが、富ヶ谷は私の生家の隣町でして、子供の頃は代々木校舎周辺を自転車で走り回っておりました。また、代々木校舎と指呼の間にあった東海大付属高校(現・東海大付属浦安高校)に通っている友だちの兄さんなどもいて、地縁と申しましょうか、いまも変わらない佇まいに親類縁者のような親しみを感じているのであります。で、山田守の作品がこちら、どんっ!
X型フォルムが印象的な代々木校舎2号館であります。曲面や曲線を多用したデザインは山田守ならでは。このフォルムのコンセプトは、東海大湘南校舎の1号館を始め、全国の校舎のデザインに踏襲されているそうです。屋上にそびえる紅白の鉄塔は、電波科学の専門学校からスタートし、科学と思想の調和を標榜する、同大学のシンボルであり、後述いたしますFM東海の電波塔でもありました。鉄腕アトムかウルトラ警備隊か、科学の発展に夢と希望を託し、なりふり構わず突き進んだ昭和の原動力を、その意匠に見る思いがいたします。
山田守の設計ではないそうですが、2号館の世界感を取り入れた4号館がこちら、どんっ!
憎いまでのキープコンセプト。船の客室か昭和のシーサイドホテルか…「東海」の名に恥じないベタなマリン感を渋谷区富ヶ谷の住宅街に漂わせている、そんな貴方が好き…屋上のふくらみは体育館の屋根でしょうか。狭い敷地を効率よく使う設計が、昭和モダンの美意識と相まって、独特の存在感を放っております。
このアングルから眺めますと、もはや古い客船もしくは閉鎖寸前(失礼)のリゾートホテルにしか見えません。あぁぁぁ~その蠱惑的な意匠に思わず、うっとりしてしまうのは私だけでしょうか。で、一転、2・4号館とは異なる個性美を放つ代々木校舎1号館はこちら、どんっ!
これ、なんと表現すればよろしいのでしょうか…グリッドで切られた縦長のガラス窓と石柱を思わせるヒダのような意匠が規則的に並ぶデザイン。来訪者を迎える門番のような左右のケヤキが、その風格を嫌が応にも高めております。このガラス窓、新緑や紅葉の季節ともなれば、樹々の色彩を見事に映し出し、狭いながらも最高学府らしい知的で静謐な佇まいを醸し出すのであります。
で、気になる1号館の裏側がこれ。戦時中の兵舎を思わせるシンプルかつ剛健な佇まいは、いまでは貴重なもの。ちなみに工学部・文学部の校舎として建設された代々木校舎は、その後長い間、第二工学部(夜間課程)のキャンパスとして使用されてきました。いまでも代々木校舎は観光学部上級学年の校舎としてバリバリの現役。数年後には、政治経済学部の移転が決定しています。大学キャンパスの都心回帰の波に乗り、代々木校舎の役割は、より重要性を増しているようです。
さて、ここで本日の本題、その2。みなさま御馴染のFM東京(TOKYO FM)の前身が東海大であることをご存知ですか?1950年代、当時の文部省は放送技術を利用した高等教育に関心を示しており、勤労学生に向けた通信教育の在り方が各大学で研究・検討されていたそうです。その中で、もっとも熱心だったのが電波専門学校を源流とする東海大でした。東海大は1958年の予備免許取得・放送開始を経て、1960年に「東海大学超短波放送実用化試験局(FM東海)」をスタート。東海大付属望星高校の通信制授業を中心にプログラムを編成し、授業放送以外の時間帯は、さまざまなジャンルの音楽番組を放送したそうです。
写真上が代々木校舎内のFM東海スタジオ(東海大学HPより)であります。その後、FM東海は、1962年に港区虎ノ門の発明会館ビルに移転。1967年から日本航空をスポンサーとする名番組「JET STREAM」のO.A.がスタートします。この番組の放送開始から1994年まで、歴代最長のパーソナリティ(番組では機長orキャビンアテンダント)を務めた御仁が、かの城達也であります。
遠い地平線が消えて、
深々とした夜の闇に心を休める時、
遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、
たゆみない 宇宙の営みを告げています。
満点の星をいただく果てしない光の海を、
豊かに流れゆく風に 心を開けば、
煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、
なんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も
瞼に浮かんでまいります。
これからのひと時。
日本航空が、あなたにお送りする
音楽の定期便。「ジェットストリーム」。
皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、
わたくし、城達也です。
夜のひととき、城さんの名ナレーションと美しいストリングスメロディーを聞きながら、眠りに落ちた方も多いのでは?。城さんは、FM番組としては異例の27年間にわたりナレーションを務め上げ、1995年に63歳の若さで他界されました。もういちど、あの夢の世界へ誘うボイスを煎餅布団の中で聞きたい…そう思うのは私だけではないはず。では最後に代々木校舎・昭和の爪痕をご覧ください、どんっ!
校地のカドにいまも残る、建設当時に大学名を刻んだ腰壁?であります。凄いですねぇ~これ。何しろコンクリートに直書き、いや直刻みですよ。で、壁面には職人がコテかなんかで刻んだと思われる、縄文式土器みたいな波模様が…ここにも「東海」らしいベタなマリン感の打ち出しを見ることが出来ます。
さらに4号館入口(裏門と思われる)には、巨大な校名直刻みのオブジェ?が鎮座しております。
成長した植え込みに「東」が埋もれていますが、まぎれもなく「東海大学」の校名が刻まれています。これほど大きな据え置き型の校名板は、全国でも珍らしいのではないでしょうか。この巨大な校名板は、数々の困難を乗り越えて東京進出を実現した、東海大創立者と関係者の夢と誇りの刻印なのかもしれません。その夢のひとつであったFM放送。それは、いまも時を超えて、私たちをひとときのロマン飛行へ誘うのです。
昭和探偵事務所がお送りした懐かしの不定期便、
時間飛行の
お供をいたしましたパイロットは
わたくし、ナガサワヨシキでした。