Vol.4〜 在りし日の今日-Walk around the C3city.
2020.12.13

By yoshiki nagasawa -Yoyogiuehara A.D.

Vol.4-四谷若葉―強制収容編【後編】

青葉に来た、もうひとつの目的。それは文化放送の旧社屋跡を訪ねることだ。新卒で入社した広告会社で僕は6年間、媒体課ラジオ・テレビ担当の仕事に取り組んだ。昔の業界用語で「ラ・テ」と呼ばれたセクションだ。テレビ局やラジオ局を相手に、スポンサーの番組提供枠やスポットCMのO.A.枠の確保、特別番組の企画・予算交渉、パブリシティの依頼、視聴率・予算効率の計算など、その仕事は、どこまでも地味で数字がすべて。四谷時代の文化放送にもスポットCMやパブリシティの依頼・交渉で何度も訪れている。

事前に調べたところ文化放送の旧社屋跡は、なんとC3が入居していたビルの並びにあることがわかった。歩くことわずか30秒。このマンションがそれだ。たしか十字路の角に入り口があったはずだ。うろついていたらマンションのファサードに発祥の地の記念碑を発見した。

これだ。いちど見たら忘れられない異形の佇まい。記念碑には、その理由が綴られている。そう、文化放送は設立母体が修道会であり、主に布教を目的として生まれたラジオ局なのだ。いまは違いますよ・・・当時、この社屋には古い教会を思わせる暗さとカビ臭さがあり、心霊現象のうわさも絶えなかった。「深夜のQRは出るらしい・・・」と。僕は昼間しか行ったことがないけれど、天井の高い玄関ホールのひやりとした空気感を、今でもはっきりと覚えている。しかし、2006年まで現役で活躍していたとは・・・

カトリック聖パウロ修道会は、いまでもマンションの並びに装いも新たに健在だ。さて、ここからは未知の領域へ足を踏み入れてみよう。旧文化放送の角を信濃町方面へ曲がると急坂が現れた。これも事前に調べてみたところ、四谷三丁目界隈は、深い谷に刻まれた土地で、いくつもの坂に四方を囲まれているという。また、寺が多いことも、この界隈の特徴だ。

多くの寺は、寛永11年に江戸城が全焼した際、城の北西の外堀拡張・新設計画に従って、麹町の寺社が四谷に集団移転してきたものだという。特に四谷三丁目南東側400メートル四方の地域は、かつての四谷区寺町、南寺町(現在の須賀町、若葉町)で、その町の名の通り、新宿区内にある寺院の25%がこのエリアに集中している、というから驚きだ。

赤ん坊を抱いた愛らしいお地蔵さまを発見。多くの寺は崖沿いに建てられており、欝蒼と樹々の繁る寺は見られない。しかし、住居がほとんどなかった江戸時代は、断崖の森の中に寺がいくつも並んでいたのだろう。谷底に立つと、そんな昔が偲ばれる。

谷底に立った僕を、見上げるような急階段が待っていた。「東京四谷総鎮守 須賀神社」だ。帰宅後、調べてみたところ、この神社は2016年に公開された映画『君の名は。』の舞台だそうで、映画が公開されて間もない時期には、多くの人が聖地巡礼に訪れたとのこと。階段を上りきると正面に、文化放送跡地に建っているマンションが見えた。

アニメーションには、まったく興味のない僕だが、キリスト修道会、仏教寺院、そして聖地巡礼のダメ押しとくれば、そこに霊験あらたかなサムシングを感じずにはいられない。映画の影響なのか絵馬にもアニメーションがらみの願い事がやたらと目立つ。

最後は須賀神社に疫病退散を願い、柏手を打ってから四ツ谷駅を目指そう。このキリスト教徒向け雑貨店「ドン・ボスコ」が、何故ここにあるのか昔から疑問だったけれど、カトリック聖パウロ修道会の存在と、同会の教会に文化放送が押し込められた事実を知り、その謎は解けた。また、江戸城の大火によって多くの寺がこのエリアに移転させられたこともわかった。この地を貫くキーワードは、もしかすると「強制収容」ではないだろうか。15年前、C3がADW社のビルに半強制的?に移転を余儀なくされたように・・・

 

新宿区青葉、ここには悩めるものを一時的に収容し、やがて自由へと解放する、慈愛の磁場があるのかもしれない。