関東甲信 絶望湯治旅 相州・湯河原 
2021.01.10

十二月末・某日。晴れときに曇り。風強く寒い。一年ぶりの湯河原駅前。ロータリーに足湯ならぬ手湯ができている。寒風がヌルい湯を波立たせていた。

一時期より客足が戻りつつある熱海と比べて、湯河原は寂れる一方だ。感染症の影響も大きいのだろう。道ゆく車も、息を止めて走り去っていくように見える。かつて駅前で観光客を待ち受けていたホテルや旅館の旗持ち男も、とっくの昔に姿を消した。

表通りから一本裏道に入ると朽ちかけた家並みがつづく。湯の街の面影を残す温泉場は、駅から歩いて一時間近くかかる。だから湯河原駅に初めて降り立った客は、温泉地らしからぬ駅前の寂しさに、たいがい興をそがれる。私はその寒々とした、私の存在を消してくれるような湯河原の駅が好きだ。

五所神社に立ち寄り、来年は、どうかお金が儲かりますように、と下卑た神だのみをして、ついでに便所を借りた。感染症の影響で仕事もなく失業同然。儲かるも何もないが…

温泉場へ向かう緩い坂路をとぼとぼ歩く。素泊まりだから酒とつまみをセブンイレブンで買う。25度の宝焼酎220mlを3本と、ほてい塩焼き鳥缶、野菜スティック、柿の種。ビールは宿の販売機で買うつもり。素泊まりの旅は、たいがいこの組み合わせだ。

駅から歩くこと約20分で宿についた。グリーン荘という宿。なるほど壁一面が緑色で遠目からも、それと分かった。一泊素泊まりで五千円弱。GoToトラベル実施期間中とはいえ安い。温泉街のずっと手前の街中で眺望もない。すでに寝床が敷かれていた。

ここは、いまどき珍しい冷蔵庫に飲み物が入っている旅館だ。広縁の椅子の足がこわれていて、座るとギシギシ音を立てて揺れる。表通りを走る車の音がときおり聞こえるのみ。

眼鏡をかけた五十がらみの女性が宿の主人らしい。感染症対策から館内の説明まで、淀みなくテキパキこなす。私が風呂の仕舞い時間をたずねると「まあ、順グリに説明しますから」といなされた。

風呂は大人ふたりで一杯になるぐらい狭い。見知らぬ男と裸で向き合いたくないので、他の泊り客が到着していない、早い時間にじっくり浸かる。この宿は午後十二時からチェックインできる、いまどき奇特な宿だ。湯の蛇口も自分で勝手に開閉できるから、思い切り湯を出して熱くしてみた。脱衣所に置いてあるブラバスのキャップをひねると若い日の父の匂いがした。

私の祖母は、昭和十一年二月二十六日の夜、ここ湯河原にいた。ニ・二六事件の夜だ。祖母は二十三歳。嫁ぐ前の思い出に親子水入らずの旅行を、と出かけた先が湯河原温泉であった。当時の温泉地は年配者の湯治や遊興の場であり、風呂は混浴が当たり前、若い女性が気軽に行くようなところではなかったらしい。祖母が泊まった宿の浴場は男女別であったが、暗がりからヌッと現れた三助に「ダンナ、お背中お流ししましょうか」とささやかれ、前を押さえて風呂場から逃げ出したという。

 

奇しくもその夜、帝都では青年将校たちが決起し、大規模なクーデターを断行せんとしていた。この夜、青年将校たちのターゲットのひとりである元内大臣、牧野伸顕は旅館・伊藤屋に宿泊していた。祖母の泊まっていた旅館は伊藤屋と道を挟んで向き合っていたという。未明、女中の叫び声に目覚めた祖母たち親子は、銃撃戦の中、猛り狂う炎に包まれて燃える伊藤屋を目の当たりにし、その光景に息をのんだ。翌二十七日に戒厳令が布かれ、移動の自由を奪われた親子は、半月近く湯河原に滞在することを余儀なくされたという。

 

牧野伸顕は地元の消防団によって助け出された。牧野襲撃の首謀者とされた河野壽大尉は重傷を負い、熱海の陸軍衛戌病院に運ばれたが、その後、差し入れの果物ナイフを使い自決。現在、伊藤屋の館内には、自決に使ったナイフや辞世の句、河野大尉と撃ち合った皆川巡査の焦げた万年筆など、約200点が展示されているという。